稲荷山松吟寺(しょうぎんじ)は、茨城県で唯一の臨済宗大本山東福寺(京都府)派寺院です。

松吟寺について
東福寺展
施設概要
年中行事
文化財
墓地・永代供養
供養等
交通アクセス

ギャラリー最終追加日・タイトル



■ 松吟寺について

歴史



開祖 円爾弁円(えんにべんえん)大和尚 「聖一国師」
開基:1276年 〜東福寺〜
 当山は、臨済宗東福寺(とうふくじ)派大本山東福寺の直末(総本山直属の末寺)として、建治二年(1276年)開基(かいき)常陸国(ひたちのくに)守護佐竹常陸介義胤公、開山は東福寺開山円爾弁円大和尚「勅諡(ちょくし)聖一国師(しょういちこくし)」により開創されました名刹です。
円爾弁円(えんにべんえん)大和尚画像

南山士雲禅師画像
二世  南山士雲大和尚
〜東福寺・建長寺〜
 二世 南山士雲(なんざん しうん)大和尚は、建長寺(けんちょうじ)二十世・東福寺十一世を勤められました。

三世 乾峯士雲(けんぽうしどん)大和尚 「廣智国師(こうちこくし)」
〜建長寺・円覚寺・東福寺〜
 
 三世 乾峯士雲(けんぽうしどん)大和尚「廣智国師(こうちこくし)」は、建長寺二十三世、円覚寺(えんがくじ)二十五世・臨済宗東福寺派大本山東福寺十七世を勤められました。
乾峯士雲(けんぽうしどん)大和尚画像


消失を遁れた松吟寺山門(現存)  
天保六年(1835年10月26日)失火
 
 天保六年の夜、失火に遭い、現山門を残し消失しましたが幸いにも御本尊「十一面観世音菩薩」、聖一国師作と伝えられる守護神御本体「茶枳尼天宇賀神王尊(だきにてんうがじんわうそん)」は消失を免れ、前住東福後住南禅宗祖辰禅師書「稲荷山」の山門扁と共に現存しているものの、当山に関する記録文書等は大方消失し現存しておりません。
消失を遁れた松吟寺山門


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初代常陸水戸藩主 徳川 頼房公
 〜 廃仏毀釈・鐘楼御寄進 〜
 
 天保の火災から8年後の天保14年(1843年)には、25世・567年続いた松吟寺も水戸藩の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の措置により廃寺・無住の寺となりました。その後、水戸藩主徳川頼房公が御参拝になられ鐘楼を御寄進されました。しかし、その鐘楼も戦時中の「金属供出」により失われました。

〜 廃寺からの復興 〜
   喚山哲応和尚
 
 明治40年(1907年)廃寺になってから約60年が経過した松吟寺に埼玉県・観音院より喚山哲応和尚が入寺(昭和9年遷化)され復興のための準備を行いました。哲応和尚は、遷化されるまでの14年間を松吟寺で過ごし、住居兼本堂のような小さな1棟で法務にご尽力されました。
哲応和尚画像
〜 廃寺からの復興 〜  
中興開山 晦宗恵鏡大和尚(松吟寺初代住職)
 
  昭和27年(1952年)117年ぶりに本堂を再建しました。大本山東福寺派第299世管長 晦宗恵鏡(まいじゅうえきょう)大和尚を中興開山(松吟寺初代住職)とし、縣知事より宗教法人「稲荷山松吟寺」の認証を受けることができました。その後、南昌賢童和尚(松吟寺第2世)に引き継がれました。
晦宗恵鏡大和尚画像(まいじゅうえきょう)

〜 廃寺からの復興 〜
 南昌賢童和尚(松吟寺第2世住職)
 
 昭和11年(1937年)現・行方市皇徳寺より南昌賢童和尚が入寺(平成8年遷化)されました。当時は、常陸太田市の正宗寺(円覚寺派)が本寺であり、その末寺にして頂き法務を行っておりました。賢童和尚は、松吟寺の他に、城里町の霊源寺、常陸太田市の耕山寺、同市の高長寺を兼務し、多忙な日々を送りました。
 
賢童和尚画像

 
 〜復興まで〜

  昭和20年代に入り、当時の大宮町(現常陸大宮市)鯉淵町長(松吟寺総代)の指示
により教育員会が 消失を逃れた山門、稲荷堂を調査したところ、東福寺派の形跡がある扁額が発見され、大本山東福寺と照合作業を行いました。

 その結果、かつて松吟寺が「東福寺派」であった記録が大本山東福寺に残っていたことから、「臨済宗東福寺派」として復興しました。
 現在の本堂は、平成八年に再建、平成二十七年に開山堂・稲荷堂・客殿・庫裡等の改修を行いました。





■ 松吟寺の概要

概要



宗  派

臨済宗

本  山

臨済宗東福寺派大本山東福寺
(京都府京都市東山区本町15丁目778)


寺 院 名

稲荷山松吟寺

所 在 地

茨城県常陸大宮市下町207番地

電 話 番 号

0295-52-0563

F A X 番 号

0295-52-0744

開  基

建治二年(1276年)

開  祖

円爾弁円大和尚「勅諡 聖一国師」

御 本 尊

十一面観世音菩薩

住  職

松浦 泰禅








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